前のぺぇじ | 書庫

春光   後編



 そう。それは七年前。
 秋風の冷たい、ある朝の事だった。

「…はぁぁ…」
 当時二十三歳だった空明は、冷える掌に息を吹き掛けながら、堂を出て来た。門を開けるためだ。それは彼の日課だった。
「今日も冷えるな。…やっぱり伽炯かけい様のお部屋の火を付けて来るべきだった」
 衣の中に手を隠しながら、後悔の念を口にする。
 十二で寺に入った空明を育て、彼と二人で寺を守っていた尼僧、伽炯。この年、彼女は既に六十三を数えていた。
 老体に寒さは辛い。
 ここ数年の内にめっきり体の弱くなった彼女と生活を共にしながら、空明はつくづくそう感じていた。
ギィ……
 重く軋む門を、両手で力いっぱい押す。その隙間から吹き込む風に身を縮めながら、空明は遠くに広がる靄を見渡した。
 と、視界の隅で何かが小さく蠢いた。
「…ん?」
 視線を左へ移すと、そこにいたのは膝を抱えて踞る幼い子供だった。
「お前…?」
  一体どれほどの時間、そこにいたのだろう。少年は頬を真っ赤にして、虚ろな瞳で空明を見上げている。年はおそらく三、四歳程だろう。彼は古びた衣の上からぼろぼろの筵をまとい、その手には何か黄紅色の塊を抱えていた。
「お前、こんな場所で何をしているんですか?」
「………」
 傍に歩み寄り尋ねたが、少年はぼんやりしたまま何も答えない。
 空明は訝しく思ったが、こんな冷える場所に子供を置いておくわけにはいかないと思い至った。気付けば、少年は小さく震えているではないか。
「こちらにおいでなさい。さぁ」
 彼を手招きし小さな肩を抱くと、空明は踵を返し、急いで少年を寺へ導いた。

「――眠りましたか?」
 そっと障子を開けて伽炯の部屋へ入ると、振り向いた彼女が穏やかな声で尋ねた。
「はい」
 空明はその傍に腰を下ろし、憚るように声を潜めて答えた。少年を起こすのを恐れてのことだろう。
「湯を飲ませて布団を掛けてやると、すぐに寝付きました。…身に掛けていた筵は、手放そうとしませんでしたが」
 理由は分からないが、彼はぼろぼろのその筵を、決して手放さなかった。そして布団の中にまで抱えて入ったのだ。
 汚れて困るわけでもないので空明は何も言わなかったが、不可解なことではある。彼にとって、それほどに価値のある物なのだろうか…。
 その答えに頷いて見せて、伽炯は膝を空明に向けて座り直した。
「空明。あの子が何も話さないと言っていましたね」
「はい。でも私の言うことは分かっているようなので、耳聾ではないと思います」
「そうですか…」
 伽炯は何か考え込むように口を噤んだ。
 沈黙の中に、落ち葉が風に飛ばされる、乾いた音が満ちていた。障子の向こうでは、名前も知らぬ子供が眠っている。何も喋らぬ不思議な子供。
 こんな寒い秋の早朝に、何故あんな場所にいたのか。どこから来た子供なのか。何ゆえ何も喋らぬのか。
 分からない事だらけだ。
「……伽炯様…?」
 その内、沈黙に耐えられなくなった空明が口を開こうとした。しかし、
「空明」
伽炯がとうとう視線を持ち上げ、それを遮った。
「夕方には起きてくるでしょうから、後はあの子が目を覚ますまで待ちましょう」
 そして、彼の不安を打ち消すように緩やかに笑った。
「ここで考えていても埒が明きませんからね」
 考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが浮かんでくる。伽炯は、そんな空明の性格を見通しているのだ。
「…はい!」
 師匠のそんな心遣いにほっとしながら、空明は、取り敢えず少年が起きるまで毎日の勤めに励むことに決めた。
「では、堂の掃除をして参ります」
「お願いします。…あぁ、足を滑らせないようにね」
 何気なく投げ掛けられる言葉。
 空明は、昔を思い出して顔を赤らめた。
「伽炯様!もう子供ではありませんよ!」

 結局、少年が目を覚ましたのは日が暮れた後だった。
 二人が火鉢を間に置いて茶を啜っていた時、
カラ……
静かに障子が開けられた。
「あぁ起きましたね」
 音に顔を上げた伽炯がそう言い、空明は少しぎこちない様子で振り向いた。
 少年はまだ少し眠たそうな眼をして、ぼんやり突っ立ったままこちらを見ていた。左手には黄紅色の塊と、右手にはやはりあの筵を引きずっている。
 動こうとしない彼に、伽炯はにっこりと微笑みかけた。
「そんな所に立っていないで、こちらにおいでなさい。そこは寒いでしょう?」
 そして自分の傍ら、火鉢を挟んで空明とは反対側を指し示す。
 少年は黙って頷き、素直に示された場所に腰を下ろした。
 空明はその一挙一動を見守っていたが、はたと気付き、
「……あ、もう一つ茶碗を持ってきます」
と言って一旦席を外した。

 戻って来てみると、残っていた二人は彼が出て行った時と変わらぬ様子で座っていた。
 優しく微笑んで少年を見詰める伽炯。筵を膝に掛け俯いて、手にしていた塊――よく見ると柘榴の実だった――で手遊びする少年。
 喋るのも何となく憚られて、空明は何も言わずに茶を注ぎ少年に差し出した。
 そして、少年の喉を茶が通るのを見届けた伽炯が口を開いた。
「お前、名前は?」
「……な、まえ?」
 問われた少年が首を傾げる。
その様子に、おそらく『名前』という概念を知らないのだろう、と考えた伽炯は、
「何と呼ばれているのですか?」
と問いを変えた。
「………ぼう」
「『坊』?」
 繰り返せばこっくりと頷く。
 伽炯は僅かに頷いて質問を続けた。
「では坊、貴方はどこから来たのですか?」
 すると、少年が懐から何か紙切れを出して伽炯に差し出した。
「……これは?」
「わたされた」
「誰に?」
「…ちょうろう」
「長老……?」
 少し染みの付いた、古い紙だった。それほど大きくはないが、丹念に四つ折にされている。
 広げてみると、きちんとした教育を受けられなかったのか、綺麗とは言い難い字が綴られていた。それでも懸命に書かれたそれを、伽炯がなぞり始める。そして読み終わると、黙ってそれを空明に差し出した。
「え…。いいのですか?」
 戸惑いの目で見返すと、彼女は静かに頷いて見せる。その目に促され、空明は紙面に目を落とした。
 それは手紙だった。要約するとこうである。
――少年は現在三歳。耳聾の母と二人暮らしだったが、その母親が、先日病で命を落とした。どうにか村でこの子を養えないものかと話し合ったが、ここ数年続く不作の所為でどの家庭もその余裕がない。ついては、寺でこの子を育てては貰えないだろうか――
 村の名前などは一切書かれていない。
(引き受けるにしろ、彼らとは連絡が取れないということか…)
 そこまで考えて、空明ははっと顔を上げた。
「…お前が握っている筵。それは…村の人に貰った物ですか?」
 少年は空明の問いに微かに顔を曇らせ、やはり黙って頷いた。
(……きっと、二度と会えないのに気付いているんだ)
 その顔を見て思う。
(きっと、今にも泣き出しそうなほど悲しく、心細いのだろう。貰った筵を身近に置くことでそれを必死に堪えている…)
 ふと、自分が一人、村を離れた時のことを思い出した。
 空明の場合は、下の妹弟のために一人分でも食いぶちを減らそうとする、彼自身の思いからだった。けれど、その頃彼は十二。心細さも悲しみも、三つの少年と十二の少年では比べ物にならない。
 少年の気持ちを思いやって、空明は手紙を握ったまま表情を曇らせた。
 その時、膝に下ろした手に温かい物が触れた。それは伽炯の掌。
「……伽炯様…」
 その顔を見上げると、彼女はにっこりと優しく笑って手を離した。次いで、そのまま少年に視線を移す。
「坊」
 呼び掛けると、少年が顔を上げた。
「遠い所から来たのですか?」
「……」
 少年が頷くのに合わせて髪が揺れる。
「そう…」
 伽炯は手を伸ばし、そっと小さな手を取って続けた。
「ねぇ、坊。貴方は今日からここで暮らすのですよ」
「…ここで?」
「えぇ。私と空明と貴方と。三人で暮らすのです」
「さんにん…」
「嫌ですか?」
 伽炯が少し顔を覗き込むようにして尋ねると、少年はゆるゆると、しかし迷いのない様子で首を横に振った。
「良かった」
 伽炯の笑顔に、僅かに少年の頬が染まる。
 彼女は少年の黒髪をそっと撫でた。
「そうだ。いつまでも『坊』と呼ぶのも少し味気がありませんね。…空明、何か良い名前を思い付きませんか?」
「名前?…彼の、ですよね?」
「えぇ」
 突然話を振られて、一瞬ドキッとした。
(名前、と言われても…)
 困って視線を泳がせた時、少年の手に握られた黄紅色の実が目に入った。
「……では『榴秋』と」
「…りゅうしゅう…?」
 空明の言葉を、少年は大きな瞳を更に見開いて繰り返した。
 そのあどけない様子に、思わず空明の口元にも笑みが上る。彼は微笑みを浮かべたまま頷いた。
「はい。『柘榴』の『榴』に『秋』。私たちの今日の出会いを込めて。…どうですか?」
 問い掛けると、少年…榴秋は初めて満面の笑みを浮かべた。こちらまで嬉しく、幸福になるような笑顔だ。
 榴秋のその顔を見て、伽炯はにっこりと笑った。
「では決まりですね。貴方の名前は、今日から『榴秋』ですよ」
「りゅうしゅう!」
 榴秋自身の声で、再び名前が繰り返される。
 伽炯と空明。二人きりで守って来た寺に、明るい陽の光が差し込んだ――


   *  *  *  *


「榴秋の古里の村のことは、詮索しないようにしようと伽炯様がお決めになったのです。彼が来たことで、私たちは少しも迷惑などしていませんしね。感謝こそすれ、怨むことなど決してありませんよ」
 話し終わると、空明は少し口を噤んだ。その瞳は、遠い日の思い出を追い掛けるかのようだ。
 目の前の空明をじっと見つめて、英鈴が静かに口を開いた。
「…『榴秋』という名は、空明様がお付けになったんですね」
 その言葉に、空明は照れ笑いを浮かべる。
「えぇ。我ながら安直だと思いますが…」
「そんな!…とても良い名前だと思います」
「…ありがとうございます」
 二年前に亡くなった伽炯の言葉が思い出された。あの夜、榴秋を寝かし付けた後で彼女もまた『良い名前ですね』と褒めてくれたのだ。
『貴方は直感で物を言うのが苦手な子でしたからね』
 そんな風に言われて、ひどくくすぐったく感じた事も思い出す。
(伽炯様、見ていらっしゃいますか?榴秋はあんなに活発に、明るく育っていますよ……)
 空明は、掌の中で揺れる緑色に視線を落とした。
 と、その時、
「空明様!」
榴秋が空明の許に駆けて来た。
「お二人で何を話しているんですか?」
「いえ、少し思い出話など。榴秋、こちらにお座りなさい」
 微笑んで促すと、榴秋は嬉しそうに空明の隣に腰を下ろした。
 仲良く並んで座る二人を見遣って、英鈴が言った。
「ねぇ、榴秋。空明様みたいな素敵な『お父さん』がいて幸せね」
 榴秋は一瞬目を見開いたが、すぐににっこりと笑って
「はい!」
と答える。
 空明は微笑みを浮かべて、くしゃっと榴秋の頭を撫でた。
「空明様が『お父さん』だとすると、『お母さん』は伽炯様かしら?」
 英鈴が笑いながらそう言うと、
「いやぁ、伽炯様のご年齢じゃあ『お祖母さん』だろう」
傍で聞いていた李が口を挟んだ。
「じゃあ母親代わりは誰かねぇ?」
 張がそれに続くと、
「そうじゃなぁ。この町は婆さんばかりじゃから…英鈴ちゃんかのぅ」
鄭がそう結論付ける。
 途端に、空明、英鈴、二人の顔が真っ赤に染まった。
「おぅおぅ、空明様も英鈴も恥ずかしがり屋だなぁ」
「もうっ!父さん!」
 茶化す父親を叱咤して、英鈴は顔を赤くしたまま店の奥へ姿を消す。
 一方、空明は硬直していた。
「…空明様?」
「…えっ?な、何ですか、榴秋?」
 訝しげに顔を覗き呼び掛けると、彼は不自然なほど慌てて振り向く。
 その顔をまじまじと見て、榴秋ははたと思い当たった。にやりと笑みを浮かべると、
「…何です?」
不審げな問いが返ってくる。
 榴秋は椅子の上で背伸びして、空明の耳元に口を寄せて囁いた。
「空明様。……いっそ、還俗しますか?」
「――っ!榴秋!!」


 春風の吹く町。
青空を、真っ白な雲が流れていく。ずっとずっと遠くまで。
 桜が散れば再び暑い夏が訪れる。そして、小さな光が現れて七度目の秋が。

 繰り返す季節の中で、暖かな想いもまた育まれゆく――。


                       end




 このお話は、2年前(浪人中)に書いたものです。友人の誕生日プレゼントにねだられて…。
 でも、本人に確認したら「話の内容、ほとんど覚えてない」との事。
 ………ふざけるな…!受験生が受験直前に書いたというのに…っ(怒)


 時代背景とか全然考えずに着手したので、「いつの時代?」とか聞かれても困ります★(爽笑)
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