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春光   前編

春。柔らかな日差しの下、色とりどりの花々が競うように咲き誇っている。
 そんな中、
榴秋りゅうしゅう!こんな道で走っては危ないですよ!」
一人の青年が、蝶を追って走る少年を制止しようとしていた。
 この青年、年の頃はやっと三十。優しげな瞳が印象的な、童顔の僧侶である。
 僧侶と少年は、寺から麓町へと続く、細い砂利道を歩いていた。
「榴秋!」
 呼んでも振り向きもしない少年――榴秋に痺れを切らせて、僧侶はタンッと足を大きく踏み出した。下駄の下敷きになった細かい砂利が、ジャッと鈍い音を立てて。視界が揺れた。
「りゅ…わっ!」
「え?」
 突然の悲鳴に、榴秋は蝶を追うことも忘れて思わず振り向いた。が、視線の先に、いる筈の僧侶が見えない。何事かと見渡すと……いた。もっと低い位置に。即ち、
空明くうめい様!」
地面に突っ伏していたのである。彼の周りには細かい砂埃。
 一目で何事が起こったのかを悟った榴秋は、慌ててその傍に駆け寄った。
「空明様、大丈夫ですか!?どうして転んだりなんか…」
 榴秋に袖を引っ張られながら、空明は『よいしょ』と立ち上がった。薄青の袈裟が砂まみれだ。彼は強かに打ち付けて擦りむいた掌を痛そうに庇いながら砂を叩き落として、榴秋の問いに答えた。
「貴方がちっとも止まってくれないから、追い掛けようとしたんですよ。で、小石に躓いて…」
「…こけた?」
「はい」
「………はぁ…」
 こっくりと頷く空明を見上げて、榴秋は深々と溜息を付いた。そして、そのままくるりと踵を返し、黙って歩き出す。
 空明は何故溜息を付かれるのか、理由も解らないままその背を追った。
「な、何ですか?榴秋」
「空明様。貴方は元々俊敏な方ではないんですよ?普段から言ってるじゃないですか、むやみに走らないで下さいって」
 俊敏ではない。ようするに、遠回しに『ドジだ』と言っているのだ。言われた空明は眉を顰めた。いくらおっとり屋の彼でも、そのくらい分かるのだ。が、まだ十を越えるか越えないかくらいの幼い少年に馬鹿にされたとあっては立場がない。
「…確かに私は鈍いですよ。でもね、榴秋。私が走ったのは貴方が立ち止まってくれなかったからですよ?そもそも袈裟というのは走りにくい物で…」
 少し情けなく思いながらも取り敢えず弁明を試みたが、
「はいはい」
榴秋は視線も返さずにヒラヒラと手を振って受け流す。
「聞いて下さいっ!」
 空明が言っても我関せず、といった様子だ。
暫くして、榴秋は苦い顔をした空明を振り返ってクスッと笑った。そしてほんの少し立ち止まる。空明が追いつくと、少年は彼を上目遣いに見上げながら口を開いた。
「空明様」
「…何ですか?」
「あんまりゆっくり歩くと、日が暮れてしまいますよ?」
 からかうような口調。
 空明は一瞬不満げな顔をしたが、すぐにふっと笑って榴秋の黒髪をくしゃりと撫でた。
「分かってますよ。さぁ、行きましょう」
 今日は町へ、要り用な雑貨を買いに行くのだ。榴秋も育ち盛り。新しい衣も縫ってやらねばならない。
 二人は気を取り直して視線を前に転じた。


「――あれ?」
 突然、榴秋が声を上げた。
 町まで十丈強ほどの場所。
「空明様、あれは…」
 榴秋が指差す先に見えたのは、小さな鳥だった。しかし、ぴくりとも動かない。
 足早に近寄って覗き込み、空明は顔を顰めた。
「…空明様…?」
 追い掛けて来た榴秋が不安げに問う。返って来たのは短い答え。
「死んでいます」
 空明は一度手を合わせると、躊躇うことなく、まだ生暖かいその死骸を掌に乗せた。そして道の端により、一旦小鳥を草の上に寝かせると、傍に転がっていた拳大の石で地面を掘り返し始める。弔ってやろうというのだ。
 それと悟った榴秋は、黙ってそれを見守った。
 そして、
「――さ、これでいいでしょう」
 即席だが、小さな墓が出来上がる。
「…可哀相に。狩りの流れ弾に当たったのでしょうね。傷も急所を外れていて、…最期はきっと苦しかったでしょうに…」
 空明は、誰に言うでもなく小さく呟いた、その声に悲しみが色濃く滲む。
 と、神妙な面持ちでその背を見つめていた榴秋が、不意に駆け出した。『何事か』と空明がそれを目で追うと、榴秋は小さな花を手に戻って来た。
「榴秋、それは?」
「死んだ小鳥の墓前に。…せめてもの手向けに…」
 哀れな小鳥にしてやれること。幼い心なりに、思いを巡らせたのだろう。
 微かな香りを放つ路傍の花は、決して高価とは言えない。しかしそれでいいのだ。小鳥の死を悼む榴秋の心に、欠片も偽りはないのだから。
 空明はそう考え、ふわりと笑みを浮かべた。
「榴秋は優しいお子ですね。……では二人で祈りましょう。小鳥の魂が、仏の御許へ導かれるように」
「はい」
「こちらへ」
 促されるまま、榴秋は空明の隣に膝を付き、真っ白な花を墓に供える。そして二人は、静かに両の掌を合わせた。
 失われた小さな命。それは人と何等変わるものではない、と空明は思っていた。そして、そんな空明に育てられた榴秋もまた。
 飛び回る蝶を一心に追い掛けるような子供らしい一面を見せながらも、榴秋は一方では生き物の死を悼む事を覚えたのである。
 一頻り祈り目を開けると、傍らの空明はまだ目を瞑っていた。榴秋は彼が祈り終わるのを黙って待つ。
 じっと見つめていると、数秒後、空明もゆっくりと目を開けた。視線が墓から榴秋へと移った。
「行きましょうか、榴秋」
「はい、空明様」
 言われ、榴秋は頷いて立ち上がったが、
「…あっ空明様!」
先に立って歩く空明を慌てて呼び止めた。
「どうしました?」
「手が汚れてますよ」
 榴秋の視線は空明の手に注がれていた。
 さっき墓を作ったためだ。彼の手には、泥と小鳥の血がこびりついていた。
「あぁ、忘れていました」
 苦笑いを浮かべる空明。
「本当にぼんやりしてますね、空明様…」
 榴秋はそんな育ての親を見上げて二度目の溜息を付き、腰に下げた竹の水筒を外した。
「手を出して下さい。洗いましょう」
「お手数掛けます」
「いえいえ」
 コポコポコポ……
 冷たい水が泥と血を洗い流す。
 
空明は懐から木綿の手ぬぐいを取り出して両手をきゅっと拭った。そして、
「…じゃあ、今度こそ」
気恥ずかしげに笑って再び歩き出す。
 と、不意に冷たい掌に感触を覚えて振り返った。感じたのは榴秋の手。
「どうかしましたか?」
「いえ。何となく」
 不思議そうに首を傾げる空明に、榴秋は首を振る。
 空明はぱちくりと目を瞬いたが、見上げる榴秋と視線を交わしてふっと顔を綻ばせた。そして小さな手を握り返し、黙ってその手を引いて歩き出した。



「――空明様!」
「あぁ、英鈴えいりんさん」
 片手に麻袋。片手に榴秋の手を引く空明に声を掛けたのは、真っ黒な長い髪を高く結い上げた、若い娘だった。
 英鈴。年は十六。茶屋の一人娘である。
「下りていらっしゃるのは久しぶりですね。うちでお茶を一杯、いかがですか?」
「ありがとうございます。でも荷物も少々重たいですし、そろそろ帰ろうかと…」
 買い物も終え、人々の様子も一通り見て回った。目的は果たしたから、と空明が彼女の誘いを断ろうとした時である。
「榴秋!」
 呼ばれた榴秋が空明の手を離し、声のした方へ走って行ってしまった。
 声の主は茶屋の主人だ。
 榴秋は貰った桃饅頭を両手で包み込み、満足げな表情でそこに腰を落ち着けてしまった。
「あ…」
 呆気に取られて思わず固まってしまう。
 そんな空明を見上げて、英鈴はクスッと笑った。
「空明様の負けですね。大人しく榴秋に付き合って、お茶を飲んでいらして下さいな」
 どうやら英鈴の言う通りにする他ないようだ。空明は麻袋を抱え直して渋々頷いた。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」


 空明が寺に入ったのは、まだ彼が十二の頃。それから十八年、寺を守り、またこの町の人々を見守って来た。
 その所為か人々に非常に慕われており、町へ下りると行く先々で声を掛けられる。
「空明様!」
「あぁ、張さん。お母さんの足は良くなりましたか?」
「はい、お蔭さまで。これでまた寺ヘ参れるとよろこんどりますよ」
「それは良かった!お待ちしていますとお伝え下さい」
「はい!」
「空明様!早蕨の取れましたから、持って行って下さい」
「いつもすみません、鄭さん」
「何の、このくらい!」
 茶屋に腰を下ろしていてもこの通りだ。元々の性分なのか、それとも彼を育てた尼僧の影響か。空明はその度に立ち上がって言葉を交わす。町の人々には『空明様はなんと腰の低いお方だろうか』と噂されていた。
 暫く後。人波が途切れ、腰を下ろそうと空明が再び振り返ると、偶然目の前に立っていた英鈴と目が合った。
「大変ですね、空明様」
 にっこり笑って、英鈴は冷めた茶を入れ換える。空明は「ありがとうございます」と小さく頭を下げて腰を下ろした。
「そんな事はありませんよ。皆さんがお元気なら私も安心して寺に帰れますし、こうして下りてくるのも皆さんにお会いするためなんですから」
 榴秋を連れていることですし、特に用がないなら買い物は人に頼む事も出来るでしょう?
 にっこりと笑って言う空明に、
「それはそうですね」
英鈴は納得顔で頷く。しかし一瞬、考えるように口を噤んだ。
「――空明様」
「はい?」
「この町が…この町の皆がお好きですか?」
 突然の問い。
 空明は少し驚いた顔をしたが、真剣な様子の彼女に優しい笑みを浮かべて見せた。
「勿論ですよ、私が育った町ですからね。でもそんな事を訊くなんて…何かあったのですか?」
「あっ、いえ!……何、というほどのことではないんですが…」
 訊き返され、慌てた英鈴は言葉を濁す。その時、榴秋の笑い声が聞こえた。
「で、その時になぁ…」
「何の!李さんさえ余計なことをせんならば…」
「…あははは!」
 その声に振り返り、二人は、いつの間にか榴秋の周りに人だかりが出来ていたことに気付いた。
 人懐っこい榴秋。朗らかに笑う彼は、人を引き付けるようだ。
 人々と歓談する榴秋と、それを嬉しそうに眺める空明とを見比べて、
「……あのっ!空明様!」
恐る恐る、といった様子で英鈴が口を開いた。
「…あの……」
「はい?」
「…あの。…榴秋が、拾われっ子だと聞いたんです」
 弱々しい声で紡がれる彼女の言葉を聞いて、空明は少し目を見開いた。
 決して忘れていたわけではないそれ。しかし、そのことを外で改めて話すことなど久しくなかった。人々も敢えて口にしようとはしなかったからだ。けれど。
「…そう。あの時、貴女はまだ十にも満たなかったのでしたね。知らなくても無理はない」
「では本当なんですね…?」
 不安げに問う英鈴。答えは分かっているけれど、確かめずにはいられなくて。
 そんな彼女に、空明は黙って頷き返す。
 その途端、英鈴が泣きそうな顔で俯いてしまい、今度は空明が慌てた。
「そんな顔をしないで下さい!…英鈴さん、榴秋は不幸せに見えますか?」
 静かな問い掛け。英鈴はふるふると首を横に振る。顔を上げると、空明は穏やかに笑っていた。
「私もそう思いますよ。皆さんに愛されて、寧ろ幸せものだと思います」
 それは、偽りない彼の本心だった。両親がいない事を、榴秋が全く気にしていないとは思わない。けれど、その分皆に慕われていると思うからだ。榴秋は、両手に抱え切れないほどの愛情を注がれている。
 一方、静かに語る彼を、英鈴は複雑な表情で見つめていた。
 彼女は、彼ら二人の仲がとても良いのを知っている。それこそ本物の『親子』ほど。だから先程のような疑問を抱いたのだ。
 もし榴秋を捨てた人間が、この町の人間だとしたら?もし空明もそう考えていたとしたら?
 素直にこの町の人間皆を愛せるだろうか。
 疑問は不安に摩り変わる。榴秋の屈託のない笑顔を見れば尚更…。
 そんな彼女の思いを見透かしたのか、空明は少し姿勢を正して口を開いた。
「…英鈴さん。榴秋の話をしましょうか?」
「え…?」
「貴女ももう十六。お話ししても差し支えないと思いますから。いかがですか?」
 空明の目は真っ直ぐに英鈴の目を捕らえていた。
 英鈴は一瞬考えを巡らせ躊躇いを見せたが、すぐにこっくりと頷いた。
「…はい。お願いします」
「では、お座り下さい」
 古びた木の盆が、ことりと小さな音を立てて卓上に置かれる。英鈴は空明の正面に腰を下ろし、彼と真っ直ぐに向かい合った。
 そして、空明はゆっくりと話し始めた。
「――あの子が寺にやって来たのは七年前。あの時、あの子はまだ三つでした――」


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